香港に居住するタンザニア人たちの人間模様を描いた本。社会学、人類学、経済学の本ってことになるんすかね。なんとか学の本っていうと、なんか小難しそうって思っちゃうけど、そんなことなくて、おもしろく読めました。
著者が有力ブローカーの一人カマラに密着して、彼らの経済活動、人間関係、生き方を観察していく。対象の中に飛び込んで、ボスのそばで彼らがどういう存在なのかを間近で観察するという形式は、スディール・ヴェンカテッシュがシカゴのギャングのリーダーとつるんで彼らの生態を観察した「
ヤバい社会学」と似たような雰囲気を感じました。チョンキンマンションっていうのは、香港にある安宿ビルですよね。行ったことないけど、ウォン・カーウァイ監督の映画「
恋する惑星」「
天使の涙」で出てきたので、香港にチョンキンマンションっていうとこがあるって名前だけは知ってました。自分の中の重慶大厦のイメージはあれなんだけど、今はあんなんじゃないのかな?チョンキンマンションは中国とアフリカやアラブの交易の拠点になってるみたいです。長期間香港に住んで、自身でも天然鉱石や中古車、携帯電話の貿易ビジネスをやって稼ぎ、また、中国で仕入れするアフリカ系の人たちのアテンドをして手数料を稼ぐブローカー業も手広くやってるのがカマラっていう人らしいです。彼の仕事を観察して、彼らの商慣習、仲間とシェアする独特な考え方っていうのかな、そういうのを明らかにしていくみたいな。ギブアンドテイク、自己責任、損得勘定、そういうのに慣れてる日本の感覚とは一味違うカマラたちの在り方。なんか、この先変動していく日本に、こういう集団の形、経済の形もあるんじゃないかと、ヒントになるような気もする内容でした。なんだろな。日本はあまりにも先のことを見すぎっていうかな。現在を見なさすぎっていうかな。そういう社会なんだなって思ったなあ。今これだけやるから、あとでこれだけ返してくれないと嫌だとかさ。今こうだけど、この先ああなるからこれしようあれしないでおこうとかさ。あまりにも、まだ起きてないことにとらわれて今を窮屈に生きている気がしちゃった。カマラたちは、今できること、ついでにできるならやる、出来ない人はやらない、そこに未来の損得勘定はとくにないし、あいつはもらうばっかで不公平だとかいう話にもならない。かっちりとルールが決まってない。相互に助け合う仕組みができていても、世の中をよくしようとか、善行をしようとかそういうことでもなく、お互いどっぷり信用も信頼もしてない。それなのに仲間内で互助する仕組みがまわっていってる。やっぱ人の出入りが活発だとこういう発想というか、形になっていくのかな。今日いたやつが、明日はいなくなってたり、今日羽振りがよくて儲けたやつが明日失敗して困窮してたり、浮き沈み入れ替わりが激しかったら、個人個人の貸し借りや損得なんて意味がなくなっていくのかな。人が出入りする場と今この時っていうのが重要になってくる。日本って、ついでにとか意外と苦手じゃないすかね。責任もってできないことは、まったくやらないみたいな。真面目なのはいいけど、窮屈なんだよなあ。