研ぎ澄まされた演出というか、人間の心の機微を感じさせる演出というか、そういうのができる鋭いセンスの監督だったと思うんだけど、いつからか時代錯誤にも見えるぐらいべたべたなことやるようになった。やっぱり年をとると作風は変わるもんなんだなあ。
ハナ肇の馬鹿シリーズ。渥美清の男はつらいよシリーズ。高倉健の「幸福の黄色いハンカチ」「遥かなる山の呼び声」など。1990年代ぐらいまではなんかぐっとくるねみたいなシーンがあったような気がする。それ以降、いまいちになった。
アルコール、ギャンブル中毒の沢田研二。妻や娘に迷惑かけて、借金の肩代わりを何度してもらってもまったく浪費癖はなおらない。とうとう愛想を尽かされて、年金を娘に取り上げられる。家族関係は崩壊寸前。
そんな沢田研二だが、若いときは映画の撮影所で助監督をやっていて監督デビューを夢見ていた映画人だった。
若いときの映画撮影所でのことと、現在の老人になってる沢田研二のストーリーが交互に描かれていくって感じです。若い時を演じるのは菅田将暉。奥さんは宮本信子。若いときは永野芽郁。親友の小林稔侍。若いときは野田洋次郎。銀幕スターの北川景子。監督のリリー・フランキー。
もともとは志村けん主演の企画だったらしいですね。ジュリーが東村山音頭を歌うシーンがあったので、ああ、確かこれって志村けんが演じるはずだった役だって思い出した。志村けんが東村山出身というのも、もう忘れ去られた昔のできごとか。
志村けんが亡くなってもういないなんて、なんだかすべてが遠い昔のことのように思われる。
沢田研二は演技を志村けんっぽい感じでやってたような気がした。志村けんならこういう感じでセリフを言うんじゃないかってね。志村けんが演じていたらどうなっていたのか。見てみたかったなあ。
才能ある助監督だった菅田将暉だったが、オリジナル脚本が認められ、いざ初監督というときに撮影でガチガチに緊張して下痢がとまらない。演出意図をスタッフと共有できず、撮影現場の雰囲気は悪くなり、事故で怪我までしてしまう。
それでやけを起こして、映画監督をやめてしまう。その大きな挫折が沢田研二のアル中、ギャンブル中毒につながってるという感じですかね。その挫折をとりかえすという展開が後半あるんですよ。
孫が撮影されなかった菅田将暉の脚本「キネマの神様」を読んで絶賛。これすごいよってことで孫と沢田研二で現代風に書き直す。それを脚本の賞に応募。そしたら大賞を受賞してしまう。若い時の挫折のリベンジをはたすってわけなんだけど、なんかもりあがらないですね。
というのも、沢田研二は終始、ふざけているから。別になんも変わってない。若い時になしとげられなかった夢の続きをどうしてもやりたいという執念もないし、脚本をどうしてももう一度書かなければならないという切迫感もない。
孫におだてられて、いい気分になって、気分がのってやってみたらうまくいっただけっていう見せ方なんすよ。そんなん見せられて心がざわつきますかね。ドラマを感じるだろうか?もうちょっと見せ方がなんかあったんじゃないのかって思っちゃう。
沢田研二が劇場で映画を見てるときに昇天するという最後も、あれじゃあ北川景子が美しい死神に見えちゃう。怪談だよ、あれじゃあ。映画が沢田研二の最後のときを迎えに来たっていう感動のシーンのつもりでやってるんだろうけどさ。
見せ方がもうちょっと何かあるだろうっていうね。そう思っちゃうところが多かったです。後半コロナ禍を盛り込む見せ方してたけど、それもいらなかったような気がする。そういう状況描写に時間を使うんじゃなくて、人の心の変化を描くのに時間を使ってほしいっすね。
なんか残念だけどさ、監督の年齢を考えたら作ることができてるだけでもすごいと思わないといけないかもですけども。
いつまでもみんな若くて元気があって上り調子ってわけにはいかない大御所の晩年作品を見ると、なんかさびしいやら悲しいやら。映画の内容の良しあしよりも、やっぱり若い時と同じような熱量やきらめきはないんだなというがっかり感を感じてしまう。
大御所がいつまでも現役でいるよりも、若い人ががんばればいいんじゃないかって思っちゃう。映画界を問わずエンタメ業界の作り手の高齢化は深刻ですね。昔すごかった高齢の大御所が懐かしのコンテンツの焼き直しばっかりやる。