そういうもっともらしくみえる話が実はそうでもないとしたらどうだろか。人間は争いを好まない善なる性質をもともと持っているとしたら。人間性悪説を示す科学実験だと言われているものが、実は客観性を欠いた信頼性のないものだったらどうだろうか。
孤島に漂流した少年たちが殺し合いに発展する小説「蝿の王」は人間の本性を明らかにした傑作として今日でも読みつがれている。だがフィクションである。実際に同じような状況になった現実の事例を探して調べてみると、孤島に漂着した少年たちはお互いに助け合い生き延びるために協力し救出されてからも友情を育んでいた。
戦場では兵士は死力をつくして敵と戦うものとされる。実際はどうだったか。銃を撃たない兵士が多くいた。敵に当たらないように撃ったり、他のことをして撃たなかったり、どうにか殺傷を避けようと行動する兵士が多かった。人間の本性が悪で暴力や残忍な行為にためらいがないのであれば、こうはならないのではないか。
イースター島が滅んだのは、2つの民族による戦争だという説がそうではないのではという研究が今日ではされている。有名な心理学実験、スタンフォード監獄実験は実験ではなく演劇みたいなもので信頼性はない。
看守役にどう振る舞うのかを誘導するような行為がフィリップ・ジンバルドーによってなされていて、公正な実験とはまったく言えないものだった。ミルグラムの電気ショック実験も同様に実験施行者によって自説にそうような誘導や演出がなされていた。
などなど、人間の悪の本性を明らかにしたとされる実験の数々が実は信頼たる実験ではなかったというのが現在明らかになっている。なのに未だにそれらの実験が定説として教科書にのってたりするし、マルコム・グラッドウェルのようなベストセラーサイエンスエッセイにとりあげられて客観的なデータがある真実のように語られる。
逆に人間はもともと善であるという性善説を示す事象や実験データの提示があります。人間はもともと争いを好まない性質で他者との共存共栄をのぞむ性質だった。人間が狩猟採集生活をしている間はそうだったが、農耕が始まり物の所有が当たり前になり富の継承がされ権力者が権力の座に座り続ける社会になって人間の性質は悪に傾いたとする説を展開します。
野蛮な猿だった人間が文明によって争いを抑え込んでいるというのとは真逆だという話。文明や所有や権力の継承が行われる前の人間のほうが争いを好まない善なる動物だった。性善説。そういう話がかかれてます。
結局、人間性悪説にしろ性善説にしろ、都合のよいデータや実験結果、事象を集めることはできちゃうわけですね。説にフィットするデータを探してきてもっともらしく見せる。データは嘘をつかないけども、データの集め方や切り取り方は嘘をつける。
権力者にとっては性悪説が都合がよい。人間は自由にさせると凶悪な行為を平気でするだらしない存在なのだから、管理するものが必要。だから権力者が必要だと。権力者にとって都合がよいから性悪説をとなえる実験や説、記事がもてはやされるっていうことなんだろね。
人間がもともと善か悪かなんかはっきりわかるようなもんでもなさそうです。
DMMブックスで「Humankind 希望の歴史」を読む