正しい答えであっても、問いが的外れであれば意味をなさない。正しい問いを設定できるかどうかが重要。写真を撮るときを例にだしていましたが、カメラを被写体を追いかけて動かすのではなく、まずフレームを決めて固定し、シャッターを押す瞬間が来るのを待つのだというのが印象的ですね。
まず枠を設定することが重要なんだと。その枠の決め方で写真が決まると。答えを追いかけ回す前に、まず問いを決めるのが重要なんだと。なるほどと思うのだけど、なかなか実行するのは難しいですね。
考えや概念としては理解できるし、そのとおりだと思うのだけど、生まれてこのかたそういう考え方をする訓練をしていない。学校や会社では、正しい答えをだすことが正しいという教えをいやというほど叩き込まれる。
問いを考えることに時間を費やすなんていうことをやったことがない。質問すること、問うことはバカがやることで、恥ずかしいことだという刷り込みは、並大抵のことでは消えないです。
なんだか皮肉じゃないですか。問題を解決する人や企業が世の中をよくするし、お金持ちになるし、人の役にたつのに、そういう人間が生まれないような教育を子供にせっせとしている。
自分自身、問う力がまるでないことをよく感じます。何か問題が起きたときに、問題のなにが問題なのか、どこをどうしたら解決するのか、何をすればいいのか、なにも手につかなくて真っ白になってしまう。
みんな子供のころは、疑問に思ったことを一日中考えていたり、これってどういうことなんだろって質問したり、なんで?なんで?と問いを探すことに夢中になってたもんですが、周囲はそれにつきあってくれない。
そのうち問いを考えることを忘れてしまう。まあ、親も先生も学校も社会もみんな生活に追われて生きてるわけで、仙人や哲学者みたいに思索にかまけるなんてことは無理。子供に辛抱強くあわせて付き合うことができる大人はほとんどいないでしょう。
問いこそが答えだ。そのとおりなんだけど、そう実行するのは難しい。
DMMブックスで「問いこそが答えだ!〜正しく問う力が仕事と人生の視界を開く〜」を読む