セールスマンに連れられてヨンダーという同じ家が建ち並ぶ住宅街に行って見学するんだけど、いつの間にかセールスマンが姿を消す。帰ろうと思って車を走らせるんだけど、住宅街から出ることができず元の場所に戻ってきてしまう。
いつの間にか段ボール箱に食料が詰められて玄関に置いてある。戸惑っていると、次のダンボール箱には赤ん坊が入っていて育てたら解放するというメッセージがあった……みたいな話です。それで脱出不能の家に住みながら、得体のしれない赤ん坊と一緒に暮らす様子を描いていきます。
赤ん坊といっても3か月ぐらいで小学生低学年ぐらいに成長します。人間じゃないなにか。不気味におもってアイゼンバークもプーツも子供にはあまりかかわらないようにしてる。泣きわめくので餌、食事の用意とかはやります。
なんなんだこいつは。なんなんだこの家は。その戸惑いのなかでだんだんおかしくなっていく二人。疲弊していく二人。まあ、なんかおもしろい展開がとくにあるわけじゃないです。どこにも行けないからね。
ずっと同じ方角へ進めば脱出できると思って、住宅街の家のひとつひとつ、フェンスをこえて庭を横切って行っても結局は同じところに戻ってくる。庭の土がおかしい、掘ればどうにかなるのかもと思ってアイゼンバークは穴掘りに熱中する。
ガキはアイゼンバークやパークのモノマネをしたりして、うざいんすよ。アイゼンバークは子供を無視して穴掘りに没頭することで、このおかしな状況を忘れようとする。
パークのほうは、見た目は人間だけど人間じゃない不気味な子供だけど、子供は子供だからなのか、ガキをかばうような行動をとったりします。母性ですかねえ。でも、はっきりとわたしはあんたのママじゃないと言ったりもします。
そしてガキだった子供は大人に成長します。アイゼンバークとパークは疲労と混乱の極みを迎えて次々に死んでしまう。袋につめられて処分されるアイゼンバーク。
いったいわたしの人生なんだったのというパークに大人になったなにかが、子供を育て終えたら用済みですという。また袋につめられて処分されるパーク。
大人になったなにかは車を運転して住宅街を出ていく。出れるんかい!そして最初の住宅展示場にいくと二人を案内したセールスマンが弱って死にかけていた。胸の名札を渡して力尽きたセールスマンを手慣れた感じで袋詰めして棚にしまうと、自分の胸に名札をつけて展示場にくるターゲットを待ち構える若いセールスマンであった。
また同じことが別のカップルで繰り返されるのだろうっていうラストです。やつらがいったいなんなのかはわかりません。宇宙人か、怪物か、未知の生物かなんなのか。なぜ人間にこんなことしなければいけないのかもよくわからない。
カッコウでしたっけ。自分の卵を別の鳥の巣にいれて子育てをやらせるやつって。映画の冒頭でも出てきてたけど、それを人間でやってるということらしいんだけど、アイゼンバークたちは自分の子じゃないとわかってるし、育ててるわけでもなかった。
勝手に赤ん坊が子供になって大人になったって感じに描かれてた。やっぱりあれなんだろな、子育てというものは、こういうことだぞっていうのを言いたいんじゃないかな。子供は得体がしれない。得体が知れないものを育てなきゃいけない。
家からどこにもいけないというのは、家族というつながり、家庭という集団はそういう縛ってくるものだというのが言いたいんだろうか。それで子供は大人になっても感謝するわけでもない。もう大人になったからあなたたちは用済みですと冷酷に切られるだけ。
穴掘りに没頭するっていうのは、なんだろね、父親が仕事に没頭して家庭と距離をとろうとするのを表してるのかな。あれだけ仲良かったアイゼンバーグとパークだが話もしなくなっちゃう。
なんかこの映画を見ると、家族をもつ、子供を育てるなんてろくな事じゃないと思っちゃう。楽しい夢のマイホームのはずが、徒労感のなかで死んでいくしかない不毛の場所だというのが現実の家庭だというね。
車のバッテリーが生きてる!ってカーラジオをかけて音楽にあわせて踊るパークとアイゼンバークが悲しくなっちゃったよ。束の間の楽しい時間。それも子供がすぐにぶち壊す。楽しい時間がそれぐらいしかない。
人生において楽しいことってこんなに短い時間しかないんだと見せられてるようで悲しくなるよ。