映画はそこからスタートして「ジギー・スターダスト」で人気が出るまでの間を描いてます。惨めなどさ回りの様子を描いてます。きらびやかなグラムロック時代の前の話だから、すごく地味で暗くて惨めです。こんなボウイ見たくないよ~みたいな。
デヴィッド・ボウイはリアルタイムでは聞いてなかったですね。大人になってから、CMとか映画とかにボウイの曲がやたら使われてたりして、それで知って聞いたって感じです。あと大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」ですね。
坂本龍一とのハグキスシーンの衝撃。デヴィッド・ボウイのイメージってとにかくかっこいいやつって感じ。音楽性どうこうというより、やたらハンサムだなあみたいな。
やってる音楽は時代によっていろいろですよね。最初はフォーク。次はグラムロック。ニューウェイブとかロックバンドとかもやってたのかな。ボウイといえばこれだというのがない。
この映画は自分自身のアイデンティティを模索して苦しむボウイが描かれます。いったいオレは何者なのか?この問いの答えをさがして迷う若者が描かれる。
3枚目のアルバム「世界を売った男」をリリースしたデヴィッド・ボウイ。アメリカでプロモーションのための宣伝ツアーに出る。オレもいよいよ世界的スターだなと意気揚々と渡米するのだが、現実は過酷。
アメリカではまったく知られていない。レコード会社の人間とボロ車飛ばして、セールスマンの集会や場末のバーや地方のラジオ局をめぐる。ボウイの歌を真剣に聞く人間はいない。音楽誌の記者のインタビューでもボウイは奇妙なパントマイムを披露するなどして奇異な男だと思われるだけだった。
このときのボウイのファッションが半分女装みたいな感じなんすよねえ。ヒールのある靴でドレスみたいなの着てて、暗い歌詞のフォーキーな弾き語りをやるボウイ。まったく人気がでそうにありません。
そんな惨めなドサ回りと並行してボウイの自分探しに苦しむ様子も描かれます。兄貴のことがたびたび出てくる。統合失調症かなんかになってる兄がいて、ボウイは自分もこうなってしまうんじゃないかという不安に苛まれる。
精神に異常をきたす血筋なんじゃないかという不安に押しつぶされそうになる。自分というものに自信がもてない。自分を出すことに恐怖を感じている。アーティストとして致命的な欠点ですよね。自分を歌や曲や歌詞で表現するのがミュージシャンなのに、自分がわからない、自分を出すのができないって。
とにかく悩む。悩んで悩んで最終的にたどり着いたのが、誰かを演じるという方法。なんか兄貴がそういう療法を受けてるのを見て、そうだ、自分が何者なのかわからないのであれば、自分で誰かを演じればよいのだということで、ジギー・スターダスト爆誕です。
異星からやってきたロックスター、ジギー・スターダストを演じることでボウイはアーティストとしての自信を取り戻し、スターになった。終。
まあ、とにかく暗い映画だった。自分探しに苦しむ様子を最初から最後までこれでもかとやるから、暗い気持ちになっちゃいましたね。最後にジギーになってめでたしめでたしという気分にはならない。
ボウイがジギー・スターダストをずっとやるわけではなく、その後もアイデンティティの模索をずっとやり続けて、スタイルをいろいろと変化させていったというのを知ってるから。ここで終わってないのを知っているから。
まあ、自分探しなんてやるもんじゃないなあ、普通の人は。アーティストは逆に自分探しをやり続けなきゃいけないのか。