遠藤周作の小説をマーティン・スコセッシ監督が映画化。長年映画化したくてあたためていた企画らしいけど、どうなんだろって感じしました。沈黙はすでに篠田正浩監督が映画化してるのがある。それでいいのでは?みたいな気がしました。
原作の小説は読んだことないけど、あれなんすかね、神がいるのならばなぜ信者の危機に沈黙するのか?というのがテーマの話なのかな。信仰とはなにかみたいなことなのかな。今見ると信仰心のドラマというより侵略者とそれを防ごうとする役人の話に見えちゃった。
新しい思想を持ち込んで、現政権に都合の悪い考えを広めようとするキリスト教徒は、支配者からすれば侵略者のなにものでもない。そりゃあ全力で迫害しますよねみたいな。子供のころは信者が善で迫害する側が悪みたいに思ってたけど、そう単純には見えなくなったなあ。
アンドリュー・ガーフィールドとアダム・ドライバーは若きパードレ。師匠のリーアム・ニーソンが日本に行って行方知れずになってるんだけど、生きてるという情報があって、二人は日本に渡って師匠を探すことにします。
中国で乞食同然の生活していた信徒の窪塚洋介を案内役にして日本に渡る。そのときの日本はキリスト教は禁止でものすごい弾圧をしてたから、二人は命がけです。それで日本の信徒たちに匿われながら師匠を探す。というかすぐに見つかって捕まって拷問とかされる。
それでそのときの大名はパードレを処刑すると殉教者になってまた信者たちが増えてなくならないと考え、パードレに信仰を捨てさせて日本人として生きるように転向をうながす戦略をとってました。
とぼけた感じでイッセー尾形が演じてましたなあ。浅野忠信が通訳でアンドリュー・ガーフィールドにあれこれ話す。あれはいずれ転ぶぞと。転ぶっていうのは信仰を捨てて日本人として生きることをいう。
それで師匠のリーアム・ニーソンがアンドリュー・ガーフィールドに会いに来る。リーアム・ニーソンはキリスト教を捨てて日本名をもらい日本人妻をめとり日本人として生きていた。アンドリュー・ガーフィールドは信じられない。
あの信仰心のあついあの師匠のリーアム・ニーソンが信仰を捨てるとは。神を捨てるとは、にわかに信じがたいんだけど、リーアム・ニーソンは日本にキリスト教は根付かないと言い切る。
そんなとこない、現に信徒はいっぱいいるとアンドリュー・ガーフィールドは言うんすけど、リーアム・ニーソンが言うには彼らが信仰しているのはキリスト教ではないってことなんです。日本風に改変された日本流のキリスト教であって、もはや別物だと。
リーアム・ニーソンは逆さ吊りの刑に処され死の恐怖にさらされつづけた。そんなときにも神はなにもおこたえにならない。神はなぜ沈黙しているのか。キリスト教、神、に疑問をもったみたいなことを言う。
そんでアンドリュー・ガーフィールドも同じように転びます。でもそれは心からの改宗ではなかった。死ぬときまで心の奥ではキリスト教徒であったと最後の棺桶に奥さんが小さなクロスを一緒におさめたときにわかる。
リーアム・ニーソンもそうだったんだろなあ。神が信徒の危機に沈黙する。拷問され死に面したパードレは沈黙して神を捨てたふりをする。神の沈黙に信徒も沈黙でこたえるしかない。
2時間半以上あってめちゃくちゃ長いし、地味なシーンしかないけど、意外にも退屈することはなかったです。なんでだろ。とくにおもしろいと思うところもなかったのに、なぜか見てるのが苦痛ではなかった。不思議だな。