昔のやつは映画なんだよなあ。ピンク映画やATGの枠のなかで、枠をぶっ壊す勢いがある。非常に映画的な映画でおもしろいのに、その空気が最近のやつにはまったく感じられない。ただ安いだけに見えてしまう。
この映画もそうです。70年代の空気の感じを衣装とかで再現しようとはしているけども、まったくうまくはいっていない。ただただ安っぽいだけに見えてしまう。若松孝二監督役を井浦新がやってるんだけど、変なモノマネ演技っていうか、癖のある演じ方してて、これもどうかなあみたいな。
まあ、本人がああいう喋り方とか雰囲気とかで、それに近づけた演技なんだろうけど、どうも違うと思ってしまう。モノマネ再現ドラマを見たいわけではないんだよなあ……みたいな。
お話は若松孝二監督の作った若松プロダクションでの映画作りを門脇麦演じる助監督の目から描く青春ストーリーです。これって実話なんですかね?最後に実際の写真が出てきてたから、登場人物たちは実在する人たちなんだろね。
大島渚も出てくるし、三島由紀夫の自衛隊突入割腹自殺事件も出てくるので、ほんとのエピソードをもとにしてるのかな?
これが実際だったとしたら、70年代の若松孝二映画が面白かったのは、いい助監督や脚本家がスタッフとしていたからだって思えました。おもしろいやつらが若松孝二のところに集まってきたからおもしろいものができたと。
この映画ので描かれる若松孝二監督は元ヤクザでピンク映画を撮ってた人で、映画の知識や学術的な理論に長けているタイプではなかった。インテリが小難しい理論をもとに映画を作ってるのとは真逆。感覚で行動で撮影をしていくみたいなタイプだったんすかね。
若いおもしろいやつらと若松孝二の行動力があわさってあの映画たちができた。それが一人去り二人去りしていく。独り立ちしていくもの、別のことするもの、若松プロダクションは時代とともに変化していく。
門脇麦演じるフーテンの助監督が、監督やってみたいけど、撮りたいものは何もないという悩みをもっていましたが、それはみんなそうなんじゃないのかって思ったなあ。
若松孝二監督だって撮りたいものなんてなかったんじゃ?って。そのときそのときの必要に迫られてどんなものを映画にするかが決まっていただけなのじゃないのかって。お金のためにただのエロも撮るし、ポスターが発禁になるほど過激なものも作るし、パレスチナ問題に興味がわくとそれも撮る。
時代がこれを撮れ、これを作れと要求する。その要求に応える行動力があったから、70年代の若松孝二は名監督で名作を作ることが出来た。それがさ、今の時代になってくると、時代が要求してこないっていうかさ、時代の要求するものがよくわからない時代になってくるわけじゃないすか。
そうなると若松孝二監督の行動力、実行力も空回りするしかない。だから、近年、晩年の作品はどうもピント外れというか、今それ作る必要あるのかな?っていうものになって、パワーのないものになるしかないわけで。
創作の今性、時代性っていうのを感じたなあ。今、それを作るっていう部分が思ったより、重要でかなり大きいっていうね。時代の流れ、時代のあり方が、映画と密接に関係しているというのを感じましたね。
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