主役の永瀬廉がエドワード・ノートンで、謎の男柄本佑がブラッド・ピットで、先輩池田イライザがヘレナ・ボナム・カーターって感じですかね。主役の名前がわからないというのもファイト・クラブと一緒。
展開も一緒なんすよ。永瀬廉が大学生活になじめず奨学金をもらわないと学費が払えないし、生活費は安い時給での単純労働稼がないといけないしで、睡眠不足と気力不足になってるところに、学校の灰皿に放火してる柄本佑と知り合いになる。
日々すり減っていくだけのむなしい生活してる主人公が、常識に縛られないスーパーマンと出会うという展開。
柄本佑はネットで稼いで一生働かなくてもいいほどの資金を持ち、スマホ一個で車を盗んでみせたりするスーパーマン。タイラー・ダーデンってわけ。他愛も無いいたずらをして、退屈な日常をぶっ潰す活動をやってる。
主人公も一緒にいたずらに興じる。根城にハミダシモノが集まってきて、だんだんいたずらが大規模になっていき、最後は東京の夜を照らす象徴を爆破してぶっ壊すというテロ計画にすすんでいく。
二人だったのが、だんだん共鳴者が増えていって大規模な組織になってテロを起こすっていう展開もファイト・クラブそのまんまです。
主人公とタイラー・ダーデンが二重人格で同一人物だったという点は、今作では違ってたように思います。まあ、無理やり同一人物だと考えればそうかもって思えるし、別人で二人いるって思うのも可能だしって感じです。
ボーリング場で池田イライザが柄本佑と会話してたから柄本佑は柄本佑でいるってことなんかな?
設定や展開だけでなく、見た目もファイト・クラブを連想するようなシーンがけっこうたくさんある。どんだけファイト・クラブ愛が強いんだ。そんなにファイト・クラブが好きなのかって感じです。
ファイト・クラブを今の時代に俺ならこう作るみたいな。そんな感じの映画だった。こういうのなんていうのかな。オマージュとかリスペクトとか、そういうのとはちょっと違うような気がする。
なんだろな。ファイト・クラブってもはや古典になってるのかな?ミステリーのおなじみの展開をクリスティやホームズものの模倣だという人がいないように、サスペンスをヒッチコックのオマージュだとわざわざ言わないように、ファイト・クラブという映画が普遍的な古典になってるのかな?
ファイト・クラブってそんないい映画でもないと思うけどなあ。ファイト・クラブ大好きっていうのは伝わってくる映画でした。