こういうのは見てる人が、いい感じだなって思うか、なんも描いてないじゃないかと思うか難しいところですね。この映画は語りたがりの人にはぴったりの映画かもしれない。階級社会についての蘊蓄とか、金持ちと貧乏についてとか、そういうのを映画にかこつけてポエムしたい人にはうってつけのごちそう映画。
それだけ余白があり、ムードだけが映像になっているから、あれこれ意味を見てる側が投影しやすくなってる。映画の中の登場人物の主体的な物語というより、一歩引いた視線で、遠目から登場人物たちを描いている感じがします。
邂逅とかかっこつけたキャプションいれてるのがなんだかなあって苦笑しちゃったけど、ほんと邂逅は邂逅なんすよ。深くは交わらない。一人ひとりが単独でさびしくそれでもたくましく生きているのが東京みたいな。
金持ちも貧乏もみんなだれとも何も共有できず、わかちあえずに人生を歩んでいく。それが東京砂漠みたいな。
門脇麦演じる金持ち医者の娘と田舎から東京にきた庶民の水原希子の二人が一応主役。一応というのは、とくになにかあるわけではないから。慶応大学に入ってからの10年ぐらいの期間のできごとを時間軸を前後しながら羅列してるって感じです。
門脇麦は結婚適齢期だからと結婚相手探しが仕事。家が代々医者の家系でけっこうな金持ちだから彼女は働く必要がない。門脇麦の役割は結婚して富の継承をすることだと育てられたから、呑気なのんびりした性格のお嬢さんって感じです。
水原希子のほうは田舎出身で猛勉強して慶應義塾に合格。内部進学生たちとの財力の違いに驚く。そして親の仕事がうまくいかずに学費が用意できずに中退。キャバやって学費稼ごうとしたけどやっぱ無理で中退。
そんな二人がどうにかなる話かと思うじゃないですか。どうにもならない。それぞれがそれぞれの事情の中でもがきながら一生懸命生きてますっていうのを描くだけです。二人の接点が、高良健吾という男だから、そこでなんかあるのかなあって思うじゃないすか。
なんもないんすよ。二人が会うシーンがあるんだけど、別に修羅場になるわけでもなくです。上流階級のお嬢様というのは、こういうものなのかみたいな。おっとりしてるにもほどがあるよ。
あのバイオリンの人はいったいなんなんだろう。ときどき出てきては、ワイドショーのコメンテーターみたいなセリフを突然一人がたりしだす。日本社会は女性同士を敵対させようとしてるとか、いつでも一人になれるように仕事をもって自立しておきたいとか、え、ワイドショーが始まったみたいな。
門脇麦や水原希子のシーンは、ほとんど説明調子がない雰囲気重視の作りなのに、バイオリンの人のシーンは説明調なのはなぜなのか。なんか変で違和感あったなあ。
門脇麦は裕福で働く必要もなく金銭的には恵まれてるけど、なにも自分の思うようにはできない。金持ちなのは親だし、結婚相手を探してあせっていたのも、そういうふうに育てられていたからだし、なんか違うんだよなあって漠然と思いながらも、高良健吾といういい条件の男とめぐりあって結婚する。
個人の自由が家の存続のためにないがしろにされる。まあ、それでも高良健吾と人生を共有できる仲間になれたのなら、門脇麦は耐えてこの生活を続けていけたと思うんすけど、高良健吾は家の方針に従って政治家への道にすすむし、門脇麦とも気持ちを共有しようとしない。
ぼくと結婚してくれただけでありがとう。ってなんか一見やさしい言葉のようだけど、残酷ですよねえ。門脇麦は結婚相手としてちょうどいい人だし、結婚したということでもう役目は終えてると言ってるようなもんですから。
それで門脇麦は、こりゃだめだってなる。家の中にいるあいだは安全ではあるけども、家のものは全部自分のものではない。子供が生まれたとしても、家のものになっちゃう。そんなのおかしいよって離婚しちゃう。
それでバイオリンの人のマネジャーみたいなことやって仕事をやってみたりする。自分で決めて自分でやる人生を取り戻そうと進みだしたみたいなことですかねえ。
水原希子のほうはなんやかんやで友達と一緒に起業してがんばるみたいなラストだったっけ。彼女は金銭的に貧乏だけど、人生を共有できる存在がいるっていう対比だったっけ。人生という自転車をニケツして乗ることができる。
この映画は金持ちの世界と貧乏庶民の世界の対比を見せる系のように思えて、実際はそうじゃないですね。そもそも水原希子と門脇麦は深く関わらないし。生きがい、自分の人生を自分で生きているという実感、そういうのを探究する自分探し映画なんだなあ。
上流階級の門脇麦は高尚な人生の目的を追える優雅な身分なので貴族。水原希子は自らの人生を切り開く自由をもつ精神的な貴族。どっちも貴族ってことですかねえ。