ブラッド・ピッドとモーガン・フリーマン演じる刑事がキリスト教の7つの大罪になぞらえた連続殺人事件を捜査する刑事サスペンスもの。公開当時に劇場で見たときの感想は、ダルいだった。なんか退屈したなあっていうのが感想でした。
猟奇連続殺人事件の話で悲惨な殺され方する人がいっぱいでてきて、ラストもショッキングな仕掛けがあるのに、感想は退屈。スリル満点で緊張感あるサスペンスになりそうに思えるけど、そういう作りにはなってないんですね。
最初のほうは犯人VS刑事!っていう感じじゃない。定年間近の老刑事と出世欲旺盛の若手刑事が凶悪犯罪が日常の街で通常業務の仕事をするっていう感じのトーンで進む。7つの大罪の事件はもう始まってるんだけど、刑事側はこんなの珍しくもないって、最初はダラダラやってる。
モーガン・フリーマンは長年の経験で、これはいつもとは違う、もっと続くと警戒しているけど、ブラピのほうはただのいつものいかれやろうの犯罪だと軽くみてる。
なんかブラピ演じるミルズ刑事がなんかアホっぽく見えたなあ。馬鹿な若者。ミルズは自分からこの街に配属されるのを望んでやってきたんでしたっけ。刑事として手柄をたてて出世するには、犯罪まみれのこの街でバリバリ事件を担当して解決するのが早道だと思ってる。
血気盛んな怖いもの知らずの愚かな若者。イキってる感じの演技が演技なのか当時のブラピの素なのかはわからないけど、うまかったですね。子供が背伸びしてる感じ。
モーガン・フリーマンの生活、ブラッド・ピッドの生活がどんなだかっていうのもゆったり描かれる。事件は進行していくんだけど、全然、スリルとか恐怖とかは煽られない。だからだるいと思ったんだな。
残忍で悲惨な事件が進行していくというのに、退屈でダルいと思ってしまう。この映画の中の街ではこういういかれた奴がいかれたことするのが当たり前にありすぎてルーティーンワークに見えるという異常性を描いているといえばうまいんだけど。
そのダルいムードのなかでときどき動きがあるシーンが挟まれて、ああ、これ猟奇殺人の話だったと思い出させられる。見立て殺人の話なのに、ここまで退屈に思わせるって逆にすごい。
あと、なんだろね、なんだそりゃみたいなシーンもけっこうありますね。ジョン・ドウにたどり着くのが、図書館の貸出履歴からっていうのは、え~って思った。
FBIの男にお金渡して、7つの大罪に関係する本を図書館で借りてる人間のリストをもらう。それでそいつの家にいったら、ビンゴで犯人だったっていうね。なんか陳腐な刑事ドラマの安っぽい展開に思えて萎えたなあ。
ジョン・ドゥは本は買わずに図書館で借りる節約家だった。まあ、売ってない貴重な古い本格的な資料は図書館にしかなかったのかもしれないね。
前半は刑事のルーティーン映像。後半は刑事ドラマ的ご都合主義展開で急展開。だから徐々に緊張が高まって迫っていくっていう感じがしないんだな。
それで最後に箱の中身はなんだろなっていうことになるんだけど、うわーって衝撃を受けると思いきやあんまり衝撃的なショックは受けなかった。やっぱりそれまでダルいし、陳腐な刑事ものっていう展開があって、スリルが徐々に高まる演出をしてないからだろね。
ブラピの最後のシーンの演技もあんまり好きになれないや。オーノーゴッド演技が突然始まる。いやー、ちょっとまってよ。おれがミルズならケヴィン・スペイシーの言葉なんか信じずにまず自分で箱の中身を見に行くよ。
そんなことあるわけないとびっくりしてポカンとして戸惑いがあってからの、オーゴッド演技が始まるのならわかるんだけど、唐突にすぐにブラピが撃つか撃つまいか迷って苦悩する演技を始める。
箱の中身の衝撃より、不自然な演技が始まって戸惑う。モーガン・フリーマンの行動もよくわからんようなわかるような。撃つのを止めたいのか、撃たせたいのか、どっちやねんみたいな。なんか止めようとしてるというより、煽って撃たせようとしてるようにも見える。
押すなよ、わかってるな、押すなよ的な。撃つなよ、撃つなよ、わかってるな、撃つなよみたいな。撃つなといって撃てと言っている。止めたいんだったら、ブラピとケヴィン・スペイシーの間にわってはいるとか、ブラピを抑えようとするとかあるだろ。
茫然自失で連れて行かれるブラピを見送るモーガン・フリーマン。ヘミングウェイの人生は素晴らしい、戦う価値があるという言葉を引用して、後半部分には同意だとかかっこよくいって映画をしめる。
いやいや、なにかっこつけてんの?ブラピを本気で止めようとしてなかったじゃん。戦ってないじゃんみたいな。
もう若くはない経験と知恵と忍耐がある老人にはこの世の中を変える力は残念ながらないのだという諦め。老人はアドバイスできるけど、そこ止まりだっていうね。降伏。完敗。
モーガン・フリーマンがグウィネスパルトロウに妊娠を相談されて、自分にも若い時そういうことがあって産ませないことを選択したけど、それが正しいことだったか今でも考える、産むのなら思いきり甘やかせて育てなさいとアドバイスするシーンとかありましたね。
メトロノームをぶん投げてぶっ壊す、ダーツの的にナイフを投げ込むっていうのは、おれはまだ戦える、戦うぞと自分自身を奮い立たせてるということですよね。
狂った世界で均衡を保って生きているという象徴のメトロノームをぶっ壊すのは、狂った世界と対峙して戦ってやるという老人の決意。ダーツにナイフを投げ込むのは、狂った世界との戦いに勝つ戦闘モードになるという鼓舞。
それで最終決戦に臨んだわけだけど、結果は完敗。
老人はいいアドバイスはできる、まだ戦う意思はある。でも現実を変えられるほどの力はない。やってみようとしたけど、心のどこかで敗北することがわかっていた。これはモーガン・フリーマンが主役の話なんだな。
ケヴィン・スペイシーは名無しの権兵衛で素性がわからない。人生の苦難を象徴する存在だから実体がないものとして描かれる。
こういう刑事ものでは、ブラピが演じた若い刑事側の視点を主軸にする場合が多い。老人側が主軸っていうのがセブンは珍しいのかも。
バーのシーンで、ブラピが悲観的なサマセットのことを、あんたが引退間近だから人生がクソだとか終わってるとか思いたいだけなんだよって反論する。これからの若者にとっては、経験豊富な老人の忠告も引退間際の老人の戯言にしか思えないわけだ。
うぶすぎる、気をつけろという老人の忠告は若者には届かない。老人の諦念。映画全体に漂うのが老人の諦めのムードだからダルくて退屈なのかも。
最終決戦に向かう前に、胸にマイクを貼り付けるために、二人がカミソリで胸毛をそってるシーンで、乳首を切り落としたら労災おりるかなとブラピがガチガチに緊張しながらジョークをいうのにモーガン・フリーマンがこたえて、そうなったら新しいのを買ってやるとかえして緊張をほぐそうとする。
未熟で愚かな若者をオヤジギャグで励ます、それぐらいしか老人にはできないんだ。悲しすぎるだろ。モーガン・フリーマンは犯人に勝つこともないし、ブラピを救うこともできないし、狂ったこの世界を変えることもできない。
ジョークを言ってその場をやり過ごしながら、なんとかやっていくしかないんだっていう絶望感。それで最後の人生は戦う価値があるっていう言葉。ファイティングポーズはとるぜ、勝てないけどなっていうね。悲しすぎるだろ。
で、結局、見終わって、なんかだるかったなっていう感想になっちゃう。今回見直しても公開当時劇場で見た感想とたいして変わらなかったなあ。
映画を見直すとけっこう感想が変わることが多いんだけど、セブンは変わらなかったかな。猟奇殺人でラストも仕掛けがあるのに、なんでこんなにダルくて退屈に感じるのか、不思議だったけど、見返してそりゃそうだねって感じ。
デヴィッド・フィンチャー監督がよくある刑事と凶悪犯がやりあう捕物ものにしたくないと思ったからこういう感じになったのかな?それともアンドリュー・ケヴィン・ウォーカーの脚本の段階でこういう雰囲気だったんだろうか。
映画のYouTubeやポッドキャストをいろいろと聞いてみたけど、概ね好評で絶賛してるのが多かったですかね。まあ、映像美的な観点からいうと高得点になるかな。あとどうでもいいけど気になったのが、ジョン・ドゥのことをジョン・デューとかジョン・ドゥーとか言ってる人が多くてなんか違和感がすごかった。
ジョン・ドゥはジョン・ドーって発音するもんじゃないの?ジョンドゥーン!って村上ショージかよみたいな。