というかけっこう早い段階で終わっているんだけど、別れないんだよなあ。別れないというか、別れられないのかな。惰性。きっかけがない。もはやなんの感情もわかない。なので別れようというエネルギーもわかない。でも一緒にいる意味はない。
うーん。男と女が一緒にいるってどういうことなんだろ。お互い趣味があう。漫画や映画や音楽、同じものを同じように感動して大事に思ってる仲間だと思って楽しい時間を過ごしていた。二人で楽しいことだけして暮らしていこうと希望にキラキラしていた若者カップル。
若者の夜は永い。宴の時間は終わらないって思っている。でもやっぱり祭りは終わっちゃうんだよなあ。イラストで食っていくぞ、才能で世の中を生き抜いていくぞって夢見てがんばる元気は若いからあるんだけど、やっぱり時間がたっていくとすり減っていく。
お金がないから就職する。二人の暮らしを支えるために働き始めたけども、仕事のほうが主になっていって、イラストも描かなくなって、有村架純との時間もへっていく。あれだけ好きだった映画や漫画の話もしなくなる。
好きなことだけやって、楽しく暮らしていこうよ、できるよっていってた菅田将暉なのに、仕事をなめんじゃねえよ、生きるって苦しいことなんだよ、責任あるんだよっていう仕事人間みたいな思考にだんだんなっていく。
有村架純とすれ違っていく。それがなんだか悲しくてね。はー、みんなそうなんだろうなあ。若い時は。いつまでも遊んで楽しく生きていけるものとノーテンキに思ってる。でもだんだん違っていく。
生活に追われていくと、もはや何が楽しかったのか、なにが自分にとって遊びなのか、わからなくなっていく。もはやパズドラしかやる気しない状態。スマホでポチポチ作業するみたいなゲームしかやる気がおきない状態になっちゃう。
二人でいることがなぜそんなに楽しかったのかわからなくなる。それが悲しい。けどそれでも人生は続くみたいな。大人になるってこういうことなのかな。
別れ話をするけども、菅田将暉は結婚して家族としてやっていこうよと粘る。そうだね、そういう関係になったら別れなくてもいいかもねって有村架純も同調しそうになるんだけど、隣の席に付き合い始める前の自分たちを連想するような若者男女がいて、そのやりとりを見てたまらない気持ちになる有村架純と菅田将暉。
もうあのころのような気持ちがお互いにないことを再確認させられちゃって、別れは不可避となります。あれってどっちにも転ぶ出来事だと思ったなあ。あれを見て、別れるのも納得、あれを見てヨリが戻っても納得みたいな。
フレッシュなカップルを見て、自分たちの過ごしてきた時間の重みや意味を再確認してヨリが戻っても不思議じゃなかったな。でも映画の二人は別れることにします。
別れるって決まるんだけど、部屋を出るまで3ヶ月ぐらいは一緒に暮らす。ときどき一緒にご飯を食べたり、一緒に映画見たりとかして楽しげに過ごす二人。
やっぱこれなのかなあ。生活がかかると楽しい時間を過ごせなくなる。人生をともにしないと思うと気楽に楽しい遊びに興じれる。こういうことなんすかねえ。
菅田将暉の先輩でカメラマンかなんかやってる人が自分が創作活動続けるために彼女を水商売で働かせたり、DVやったりやって、あげくしょうもないことで死んでましたが、人生をかけて遊ぼうとすると、犠牲にするものも大きい。
究極には自分の命すら落としてしまう。だから趣味で楽しいねってやってるのが一番精神衛生上いいってことなんだろね。恋に人生かけちゃ息苦しくなっちゃう。
でもオダギリジョーみたいな人もいるんですよねえ。ちゃらちゃらして遊びみたいなことを仕事にして成功してるみたいな人も。うまくやるやつはうまくやる。終わるときは終わるみたいな。
まあ終わってみればなんだか爽やかな心地よさのある映画だったかな。出会いから別れまでの話だけど、悲壮感や絶望感みたいなものはないです。ふたりとも次のパートナーとそれなりにうまくやってて次に進んでいるから。
普通に出会って、普通に楽しく恋愛して、辛い別れも乗り越えて次の出会いに。いやー、普通にすごいことしてる。普通っていうのは難しいけど、菅田将暉も有村架純もその難しいことをさらっとやってるから、けっこう後味はよかったです。
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