そうなんだ~。ジブリアニメの「耳をすませば」は見たことない。見たことないのに、カントリー・ロードっていう曲が印象的で、なんかあれだっけ、ネコのバロンとかいうファンタジーな存在が出てきて、
男の子がバイオリン職人なんだっけみたいな、断片的な情報と映像はいろんなところで目にしてて、なんだか見たような気がしてました。ぜんぜんどんな話かは知らないんすよねえ。
それでジブリのアニメがそもそも原作マンガとはぜんぜん違う設定や物語になってるそうですね。まあでも耳をすませばといえば、マンガよりジブリアニメの印象になっちゃってるなあ。
それで今回の映画なんすけど、見始めてすぐに、うわってなる。なんだこれは……って。子役とか俳優とかの演技がアニメなんですよ。
ジブリアニメをトレースしたかのような、俳優の動きとセリフの言い方。マンガやアニメならおかしくないけど、実写でこんなセリフ言ったり、こんな大袈裟な動きしたら、変すぎるというような演技をやるんです。
衣装とかも変だし。アニメだったら浮かないけど、これ実際に生身の人間が着てるとなんか変じゃないかっていう衣装着てるんすよ。子供の服とか帽子とか、ぜんぜん着慣れた感じしない。画面のそとで、衣装これなんで、着てくださ~いってメイクさんがもってきて着たって感じ。
作り物感がすごい。画面の構図とかも、ジブリアニメを実写でやりましたって感じなんですよ。まるでAIにジブリアニメを読み込ませて、見た目を実写に変更してって指示だして作ったAI動画みたい。
でも、これわざとやってんだろなって。実物の人間にアニメのような衣装着せてアニメのようなセリフ言わせて、アニメのような動きをさせてる。
目指せジブリアニメ!な実写。
なんで実写をアニメ化するチャレンジをやってるのかよくわからないけど、どういう意図をもって監督やプロデューサーがこういうテイストの映像作りをしたのかすごく気になった。
ジブリっぽい実写がやりたかったのか。
そういう違和感がすごくてなかなか入り込めない。物語がどうこうという以前に、味わいがかわってるからそれが気になってしまって。
ああ、この映画はそういうトーンで描くんだって納得するまでにかなり時間がかかった。まあ、せっかちな人は最初の10分とか20分で、慣れなくてギブアップして退場しちゃうかも。
主人公は本好きの安原琉那。借りた図書室の本の図書カードに同じ名前がいつも自分より先にかかれていたのが気になっていた。その男の子、中川翼と知り合って仲良くなっていく。中川翼はチェロ奏者になるためにイタリアに留学する。
安原琉那は児童文学作家になる夢を追いかける。同じように夢を追いかける似た者同士。将来を約束してそれぞれ夢に邁進したのだった。
そして10年後だっけ、大人になった清野菜名は作家目指してコンクールに応募するが落選する毎日。小さな出版社勤め。松坂桃李のほうはイタリアでチェロ修行がみのりだし、カルテットでレコーディングするなど夢を着実に叶え始めていた。
それで清野菜名が、わたしもう夢あきらめたほうがいいのかな、仕事もうまくいかないし、松坂桃李と遠距離で彼の気持ちがまだこちらにあるのかもわからないし、って悩む。
悩んでる清野菜名のシーンと、学生時代の安原琉那のシーンが交互に展開ってかんじです。この思い出の場所では、昔こんなことあったなあとか、ここであのときわたしはこういったっけみたいなかんじで昔を回想。
そんで、もうこれは一度イタリア行って松坂桃李の顔見て自分を見つめ直そうってことで会社で有給取ってイタリアへいきます。
手には地球の歩き方を持って。いやー、この映画って時代設定は1980年代後半から1990年代前半みたいで、今はもうわからないサービスやモノが出てきておもしろいです。
有給?そんなもんない、会社やめる覚悟あるんだろなってタバコすいながら、怒鳴り散らす上司。今これやってたらやばい。公衆電話から国際電話。ラインとかメールとかないからね。図書の貸し出し管理は本に短冊の紙がついてて、そこに日付と名前を記入する方式。
そうだ、自分が子供のころは図書の貸し出し記録カードあったなあ。今はバーコード管理だもんね。
だーりおの彼氏が乗ってる車はホンダのシティだっけ?90年代描写が、今じゃ絶滅したか、存在しない描写が時代をかんじさせるというより、この映画に奇妙な味わいを追加してておもしろいです。
90年代初頭はインターネットもなかったっけ?ポケベルとかが主流だったっけ。携帯電話すらまだ普及してなかったような。
サービス残業当たり前。パワハラ上司当たり前。職場でくわえタバコ当たり前。土下座謝罪も90年代名物か。
でも90年代にあまり見えないというか、変な今に見えてしまう。90年代が中途半端な昔だからだろうなあ。70年代、50年代とかなら、今とはずいぶんファッションの流行やもののデザインが違うから、昔のことだねって自然に見れるけど、90年代はそれほど昔ってかんじしない。
だけどさ、変なとこ多いよ。イタリアに久しぶりに、たぶん10年間一度も行ってない清野菜名がわざわざやってくるというのに、松坂桃李は自分の部屋になぜ泊めてやらないのか。
めちゃくちゃよそよそしい。二人の関係がなんかよくわかりません。遠距離の恋人なら実際会えたらもっと親密なムードになるはずなのに、なんかすごい距離あるのよ。
10年間、文通とか国際電話とかで気持ちを確かめあったりしてないのかな?90年代なので、LCCなんてないから、簡単に飛行機のって会うなんてできないのはわかるけど。
このぎこちなさはよくわからない。なのに、松坂桃李はぼくの一番大切な人なんだって仲間に嬉しそうに言ってて、部屋には清野菜名の写真をかざっている。
でも二人が会うと、めちゃくちゃ他人行儀。どういうこと?みたいな。ホテル高いだろうし、部屋に泊めたれよって。
カルテットのメンバーの女が、突如、わたしは松坂桃李を愛している、あなたは10年も離れていて平気なのか、愛してないんじゃないかって、清野菜名に食って掛かるとかさ、なんだ~、昼ドラの修羅場始まった~って。
思ったら修羅場にならず、清野菜名が日本に帰って、愛してるメンバーも普通に活動してて、なんのこっちゃ?
あれなんかな、お互い夢をかなえるまでは、恋人同士みたいなことはしないでおこうと誓いあったとかなのか。
それも戦前の話とかならわかるんだけど、90年代でそれはないんじゃないかって。いくらなんでも二人の時間が止まりすぎだろって。
10年後、大人になった二人を描くといいつつ、二人は大人になってなかった。子供のままでときがとまっていたのだみたいな話にかんじた。
やっと最後で、おれ、日本を拠点にするよ、だから結婚してくれ、うんいいよってなって、ここでやっと二人の時間が進み始めて、二人は大人になっていくのかなみたいな。
ここでおしまいなので、大人になった二人は見れずじまいです。失われた10年間。空白の10年間。停滞してるのを見せられただけ。
いやー、クセツヨな映画だった。楽しそうにチェロで翼をくださいを奏でる松坂桃李と、童心にもどって歌う清野菜名。二人の奇妙なセッションはこれからも続くってか。
「翼をください」もよくわからないんだよなあ。二人ゆかりの思い出の曲とかだったらわかるんだけど、そんなかんじでもなかったですよね?すんごい思い入れがあって、二人にとって意味があるっていうかんじに描かれてなかったから
二人のセッションシーンが感動にならずなんだかなあっていうね。ジブリアニメでのカントリー・ロードはどういう扱いなんだろ。主人公にとって意味がある曲って描かれてたのかな。
なかなかきびしかったなあ。ジブリがどうとか、原作がどうとか、カントリー・ロードじゃないとか、そういうことじゃないですね。大林宣彦監督の映画が大丈夫だったら耐えられるかもしれない。でも大林映画ほどのぶっとび感もないからなあ。
ジブリアニメのほうの「耳をすませば」を一度見ないといけないね、こりゃ。